ル−マニア・プロボタ修道院の保存修復事業 三宅理一
モルドヴァ地方の修道院文化
ル−マニアの北東部、モルドヴァ地方は、聖堂の外壁・内壁のすべてに美しいフレスコ画が施された中世の修道院の存在で知られている。古都スチャ−ヴァの町を中心として、ひなびた村や山間の森のあちこちに、高い壁で周囲を囲んだ修道院が点在しており、歴史的景観としても最大級の価値をもった土地柄である。ただ、その歴史は複雑で、北にウクライナやロシア、西にオ−ストリア、南にトルコという地政学的な条件ゆえに、古代以来さまざまな政治勢力がこの地を席巻してきた。ル−マニア正教に与する修道院は、その激しく移り変わる政治体制のなかで、唯一この土地のアイデンティティを確保する場所であったに違いない。実際、モルドヴァのモルドヴァたる所以は、中世末になってこの地にモルドヴァ公国が成立したことに遡る。ベッサラビアと呼ばれる現在のモルドヴァ共和国(旧ソ連)を含めた広い地域がその支配下となり、今日のモルドヴァ地方の地域アイデンティティもこの時期にかたちづくられたといってよい。
モルドヴァ公国の最盛期は、15世紀終わりから16世紀にかけてのシュテファン大公ならびにその子ペトル・ラレシュ公の時代であった。公国の範図が最大となり、仇敵トルコに対し数々の軍事的勝利を収めたことでも知られる。500年たった今でも、シュテファン大公は民族の象徴であり、モルドヴァ一円に建てられている大公の彫像は、それこそ数限りない。世界にも例がない壁面のすべてをフレスコ画で覆った修道院は、まさにこの時代の産物である。
シュテファン大公は、トルコとの戦いに勝利を収める度に、神の加護を祝して修道院の建立をはかり、その数40に及んだという。修道院の建設は短期間に行われ、その中心たる聖堂は、単廊式の同一タイプのものが建てられる。フレスコ画が施されたのは、建設後しばらくたったペトル・ラレシュの時代であった。
観光客にも馴染みが深いのは、スチャ−ヴァの西に山間に展開する5つの修道院建築である。フモ−ル、ヴォロネッツ、モルドヴィツァ、スチェヴィツァの4修道院、ならびに墓地聖堂たるアルボレ聖堂で、スチャ−ヴァを出発し、一日で巡回できるコ−ス上に位置している。4つの修道院はいずれも女子修道院で、そのなかで最大の規模を誇るのが、スチェヴィツァ修道院である。
今回の保存修復事業の対象となったプロボタ修道院は、上の5つの建築群とは異なり、スチャ−ヴァから南にに40キロあまりのところに位置している。なだらかな丘の上を占めるかたちで建立され、修道院に隣りあってプロボタの村が拡がっている。この修道院は、シュテファン大公の墓所となっている北部のプトナ修道院と並び、ペトル・ラレシュ公の墓所として歴史的に重要な役割を演じてきた。しかし、19世紀の終わりに教会の世俗化の波を受けて閉鎖され、以後長らく無人のまま放置されてきたので、建築やフレスコ画の傷みが激しく、今回の事業となったわけである。
ユネスコの取組み
プロボタ修道院の保存修復の必要性が叫ばれるようになったのは、1989年にチャウシェスク政権が崩壊した後、ル−マニア正教会が教会の資産たる修道院や教区教会の整備を始めたのに対応している。本来、文化財(歴史的記念物)たる宗教建築の保護は文化省のもとでなされてきたが、国の文化財行政と教会の方策とは必ずしも同一の方向をめざしていなかった。国がひたすら文化財的価値を前面に出して規制を加えるのに対して、教会の方はチャウシェスク時代の抑圧から解放され修道院を新たな正教文化の拠点として施設整備を行っていこうとの姿勢を明らかにしていた。プロボタ修道院は、19--年にスチャ−ヴァ大主教区から数名の修道女が派遣され、ようやくかつてのような修道院としての機能を復活させたばかりであった。
他方、文化省の予算には限りがあり、とりわけ社会主義政権の崩壊後、通貨レイが暴落したこともあって、多数存在するモルドヴァ地方の中世修道院の修復など実質的に不可能な状態に陥ってしまっていた。チャウシェスク体制下で行われきた事業も軒並みストップし、プロボタでも1980年代末に始められた工事が中途半端な段階で止められてしまった。その状況に対し、教会が信徒のボランティア活動を下敷きとして国の行うべき保存修復工事を肩代わりして行い、フレスコ画の修復画家や修復建築家たちも、教会を拠り所として細々と保存修復のための作業を続けてきた。
ユネスコがプロボタ修道院の保存修復問題に関心をもったのは、当時国のもとで文化財を管轄していた歴史的記念物委員会が、国を介して1992年にパリのユネスコ本部に対してプロボタ修道院保存修復の支援を訴えたのが、そもそもの始まりであったといってよい。国の予算では到底不可能な保存事業を、国際的な支援体制のもとで実施したいとの希望を表明したのである。ユネスコからの要請に対して、日本政府がユネスコ信託基金を通して保存修復事業への取組みの可能性を示したのはその翌年のことであり、その時点で具体的な事業調査が始まった。
筆者が外務省からの要請で、ル−マニアに派遣される調査団に加わったのは、1993年10月末のことである。外務省の専門官に古建築やフレスコ画の専門家を加えた国際ミッションがかたちづくられ、約2週間にわたって現地調査ならびにヒヤリング調査を行った。調査そのものは、ル−マニア側の受入れ体制の不備などで難行したが、スチャ−ヴァ大主教の努力で貴重な中世建築遺産の実態に深く触れることができたという点で収穫は大きかった。このミッションの報告書をもとに日本政府の支援が決定されることになるが、ユネスコ保存修復事業においては日本初のヨ−ロッパでの取組みとなった。
その後、実際に事業が開始されるまでに3年の月日がかかっている。筆者は、国際交流基金の派遣、ル−マニア文化省の招き、あるいは芝浦工業大学からの派遣などで、繰り返しル−マニアに足を運んだが、パリとブカレスト、すなわちユネスコ本部とル−マニア政府との間で調整がつかず、大いに気をもんだことを思い出す。その間、1994年には、文化省内のリストラで歴史的記念物委員会が廃止となり、文化財保存事業は文化省内の小組織(歴史的記念物局)が担当することとなり、現場の専門家たちは身の振り方を案ずる方が先で、国際協力どころではないという印象であった。その一方で、教会側は、モルドヴァ地方を管轄するヤシの府主教とスチャ−ヴァの大主教が、国の対応の遅さを嘆きながらも、地元のスチャ−ヴァ県議会の協力を得てインフラ整備に乗り出していた。1995年に入って、弱体となった文化省に替わって、ル−マニアのユネスコ国内委員会がル−マニア側の窓口となり、ようやく体制を一本化することになる。ユネスコ側もこの頃、現在までこの事業を担当するアルフェオ・トネロット氏が着任し、プロジェクト・ドキュメントづくりに向けて動きが早くなった。
日本政府がユネスコに求めたのは、プロボタ修道院の保存修復事業を2年間の事業スケジュ−ルで完了させることである。それまでのモルドヴァでのフレスコ画修復のペ−スではとても完了できる期間ではなかったが、国際チ−ムを投入し、冬期も作業を行うというかたちでプロジェクトの内容が決まっていった。かくして、1996年4月にユネスコとル−マニア政府との間で公式文書の調印がなされ、同年10月にユネスコや日本大使館の代表、文化大臣、ル−マニア総主教らが参列し、荘厳な記念式典がとり行われた。現地に滞在し、プロジェクトの指揮をとるプロジェクト・マネ−ジャ−も、イタリア出身のイグナツィオ・ヴァレンテ氏に決まり、冬の間に具体的な準備がなされていく。筆者もこの式典に招待され、その場を利用してヴァレンテ氏にそれまでの3年間のエピソ−ドを通してル−マニアで仕事をこなすためのこつを詳しく伝えたことが、今ではなつかしい。
もっとも、この年の12月に大統領選挙があり、旧共産党の流れを汲むイリエスク政権が敗退し、民主派のコンスタンティネスク政権が発足する。そのため、閣僚から政府高官のすべてが入れ替えとなり、10月の式典に出席した政府関係者のほとんどが交替してしまった。そのため、1997年に始まる実際の保存修復事業にあたっては、改めて政府内の人の流れを作り直すという作業から始めなければならなかった。
プロボタ修道院の保存状況
さて、事業の対象となったプロボタ修道院が、どのような状況にあったか、ここで少し述べておきたい。歴史的重要度の割には他のモルドヴァの宗教建築に比べて保存状態が良くなかったことは確かであり、その危機感が今回の事業につながったといってもよい。
モルドヴァの修道院文化についての研究は、19世紀後半以来盛んとなり、今までに数多くの書物や論文が発表されている。ラテン圏に属することもあって、昔からフランス文化に強く感化されていたせいか、保存理論に対するヴィオレ・ル・デュクの影響は大きく、100年以上前からさまざまなかたちで修復事業も行われている。美術史家、建築家の活躍も目立ち、古文書を下敷きとした実証研究も長い歴史を有している。しかし、ことプロボタに関していえば、それらのなかでは研究が少なく、その意味でも今回の保存修復事業は、新たな総合研究のチャンスを与えるものだった。
プロボタ修道院の形状は、約80メ−トル四方の方形の敷地に高さ7メ−トル程の囲壁を回したものである。そのなかに単廊式の聖堂と公爵の館と呼ばれる居館の2棟が建っており、囲壁の東側に正門が設けられている。もっとも、教会の所有地そのものはこの修道院コンプレックスの外側に大きく拡がり、現在修道女たちがそこで農作業や家畜の飼育を行っている。ちなみに、修道女たちの居住棟は囲壁の外に設けられているが、これはあくまでも保存修復事業が終わるまでの暫定的な建物としての扱いを受けている。ただ、文化省側は、現在の囲壁のなかに新しい建造物を造ることは認めない方針であり、教会側との思惑の食い違いが顕著である。
この修道院から東側に200メ−トル程足を運んだところに最初の修道院の廃墟が残っている。1398年にこの場所に建てられた最初の木造の聖堂が1440年頃、シュテファン大公によって石造の建築に建て替えられる。さらに、1465年になってその建築を建て替えて第三次の聖堂となすが、谷間に向かった斜面に建設されていたせいか、15世紀後半に起こった地滑りで倒壊し、現在の廃墟となる。今のところ調査研究はなされていない。その後ペトル・ラレシュ公によって1528年に、現在の平坦な場所に敷地が移されて建設が始まった。都合4回目の修道院建築ということになる。この第四次プロボタの創建当初の建築がどのようなものであったかについては、今回の事業の一環として行われた考古学的発掘によって明らかにされる予定である。現在の遺構は何度かの改築を経て出来上がったものと思われる。囲壁のなかには、他にも建造物のあった痕跡が認められ、とりわけ聖堂の南側は地面が盛り上がっていて、地中に昔の建造物の遺跡が埋まっていることが当初から予見されていた。
聖堂は典型的なモルドヴァ・タイプで、東西の軸線上に、東からベ−マ(至聖所)、ナオス(内陣)、墓室、プロナオス(身廊)、ナルテクスの配置となっている。長さ36.20メ−トル、幅9.50メ−トル(プロナオス部分)の単廊式平面で、外壁には7基のバットレスがつけられて推力を支えるかたちになっている。天井はヴォ−ルトとド−ムからなっており、その上に木造の小屋組が載せられている。ナオスの上部は塔が突き出しており、頂部の十字架までの高さは30.50メ−トルに達する。ナルテクス部分はゴシックのディテ−ルをもち、明らかに後世の増築と理解できる。
この建築の傷みが激しくなった遠因は、19世紀後半に導入された政治と宗教の分離政策により、1872年にこの修道院が廃止されたことであった。修道院が無人状態となるや通常のメンテナンスも行われず、建築はどんどん傷んでいく。とりわけ庇の破損によって外壁のフレスコ画に雨や雪が直接かかることになり、そのことがフレスコ画の状態を著しく悪くしてしまってようである。そのため、既に1930年代には当時の文化省によって建築駆体の保存工事が行われている。その頃、ベッサラビアをも併合して領土が最大となり、国民の間では大ル−マニア主義の気運が高まって、古き良き建築遺産に対する関心がきわめて高かった時代であった。さらにチャウシェスク時代の1960年代にも文化省により一定の修復工事がなされており、地震等でクラックの入った壁体の補強、木造小屋組の架け替えなどが実施されている。この2回の保存修復工事に際して、当時の文書や図面が残されており、それが今回にも大いに役立った。さらに1980年代末、耐震補強と屋根の架け替えを中心とした保存工事が始められたが、これは先に延べたような理由で中断されてしまった。ただ、これらの工事を通して、この建築のハイライトともいうべきフレスコ画の修復はまったくなされておらず、今回の事業で初めてその試みがなされることとなった。
保存修復事業の立ち上げ
ユネスコの支援を受けた今回の保存修復事業は、既に一定の蓄積を築いていたモルドヴァの修道院建築の研究を下敷きとして総合的な事業の実施を方向づけている。事業の内容は、保存修復に直接関わる部分と、それを支えるためのロジスティックスに関わる部分にわけられる。前者は、建築、フレスコ画、考古学の3部門を中心となし、それに保存科学分野からのバックアップ体制がとられ、後者は修復家の居住施設、道路の改良や水道の施設といったインフラ整備が主体となった。当初のプログラムでは、前者はユネスコと文化省が共同であたり、後者は文化省と地元のスチャ−ヴァ県とがあたることになっていた。しかし、我々の想像を絶する現地通貨レイの下落で、ル−マニア側の予算執行に大きな問題が発生し、文化省の対応は常に後手後手に回っていたとの印象を免れない。この仕事に携わる文化省の専門官の月給が外貨換算で70ドル弱であるという事実が、そのことをよく物語る。文化省が任命するル−マニア側のプロジェクト・マネ−ジャ−の人選は二転三転し、ようやく1997年夏になって現在のダン・キシレヴィッチ氏に落ち着いた。
逆に、修道院の所有者でもあり、事業の成り行きにもっとも強い関心を抱いていたピ−メン・スチャ−ヴァ大主教は献身的にこの活動を支え、食事の提供に始まって、資材の調達や輸送、修復家の居住などに対して大主教座が多大の便宜を図ったことは特筆すべきである。ル−マニア通貨の下落は、外貨の運用面では逆に効果的で、延床面積300を越える修復家の居住施設の建設費が20,000ドルを少々越える程度だったといえば、多少なりとも理解してもらえるだろうか。(結局、この建設費の半分はユネスコが持ち、残り半分は教会とスチャ−ヴァ県が負担した。)
1997年初頭から春にかけては、ユネスコ側の立ち上げ期間であったといってもよい。
プロジェクト・マネ−ジャ−のヴァレンテ氏が真っ先に着手せねばならなかったのは、現地事務所をどこに設けるかということであった。問題は、現場に近いということだけではなく、パリの本部や日本と連絡がとりやすい場所でなければならないということであった。プロボタは村に数台電話はあるものの、外線にかけるのは賭けに近いといわれるほど信頼性がない。スチャ−ヴァは国際電話はブカレストの交換を通して繋がるが、インタ−ネットには繋がらない。そこで、最終的にオフィスの場所として選ばれたのが、モルドヴァ地方最大の都市ヤシで、プロボタまで100・程だが、ここならインタ−ネットは問題がない。最初の頃は、東欧に強い関心を抱くソロス財団の協力を得て、財団の建物に間借りをしておいたが、その後、ヤシ国立博物館の一室に事務所を移し、事務所にスタッフを雇入れ、さらに現場用にトヨタの四輪駆動を購入した。
この期間、筆者も数か月に一回の割合でル−マニアに通うことになり、文化省次官マリア・ベルザ女史や再度復活した歴史的記念物委員会の委員長アンドレイ・ピピディ氏らと組織の立ち上げを行い、ブカレストとヤシとを繋ぐ体制づくりに忙殺された。また、我国でル−マニア中世建築の修復について新たな研究組織をつくった東海大学教授の羽生修二氏より、さまざまなかたちでこのプロジェクトの支援をいただくことになる。
さて、現場の方はますます忙しくなる。事務体制が立ち上がったところで、次に待ち受けているのが、フレスコ画の修復を中心として集まって来る修復家たちの宿泊施設の手配である。プロボタには、そのような施設はなく、当初は村の建物を借り受ける話もあったが、経済的にまったく余裕のない村人の生活を圧迫することもできないので、新たに施設を建設することになった。敷地は、修道院横の教会が所有する場所で、延床面積としては300・程度となる。設計と施工監理は現地に滞在中の芝浦工業大学大学院生の舘崎麻衣子君が行い、文化省の求めに応じて、モルドヴァ地方の民家にのっとった木造二階建てのヴァナキュラ−なデザインとなった。文化財(歴史的記念物)に隣接するということで、最初は仮設の建物しなければならないという条件であったが、いざ建設が始まると、文化省側は将来の保存修復センタ−の一部に組み込まれる古文書館という扱いに見解を変え、修復事業が終わった後も残される予定である。
建築の耐震補強
今回の事業でもっとも予算がかかり、人手を必要とするのが、フレスコ画の修復である。しかし、この作業を行うためには先ずもって建築の保存修復が終わっていなければならない。その意味で、建築部門の作業はもっとも基本となるものである。しかも、この国は日本と同じ程度に地震が多発する。組積造建築を一般としながらも、常に地震に直面せざるをえなかった歴史を有する。古建築の保存技術は、何よりも耐震補強の問題を避けては通れないという事情があった。
建築部門の責任者はブカレストのイオン・ミンク建築大学教授の建築家ヴィルジリウ・ポリズ−氏が任命された。モルドヴァ地方の宗教建築の保存修復を手がけてきた第一人者で、様式やディテ−ルにも詳しい。国の文化財(歴史的記念物)審議会の委員でもある彼は、建築だけでなく、プロジェクト全体の責任者も兼ねることとなった。一方のユネスコ側は、建築家でもあり若い頃カルロ・スカルパに師事した担当官トネロット氏が建築を掌握し、この二人が共同して建築部門を統括し、同時にプロジェクト全体を動かす手筈となっていた。しかし、後に触れるように、文化省の対応の遅さに加えて、外国語を理解しないポリズ−氏が責任者となったことでコミュニケ−ション・ギャップが生まれ、ユネスコとル−マニア側との間にさまざまな齟齬を生み出すことになった。
さて、地震国ル−マニアの場合は、建築家に加えて優れた構造技術者をも必要とする。そこで、同じくイオン・ミンク建築大学教授で国際的にも知名度のあるアレクサンドル・チシュミジュ氏がその任に当たることになった。組積造である聖堂の建築にいかに耐震補強を施すかが大きな論点となるが、この国では1960年代以来鉄筋コンクリ−トによる補強が一般的になっている。プロボタ修道院についても、1980年代末から90年代初頭にかけてポリズ−氏が担当となって構造補強がなされた。壁体上部に鉄筋コンクリ−トの厚さ30-40センチのリング(臥梁)を回し、さらにヴォ−ルトやド−ムの上に鉄筋コンクリ−トのキャッピングを施す。聖堂の上部全体を厚いコンクリ−トで固めてしまったといってよい。残念ながら、この工事の構造設計を担当した技術者は他界してしまい、施工手順や施工精度についてヒヤリングを行うことができなかった。そのため、聖堂の耐震性能の判定にあたっては、芝浦工業大学助教授の大和田義正氏を派遣し、その作業を依頼した。結論からいうと、現況で構造的にはほぼ十分な耐震性能を得ているが、材料特性や施工精度が完全に把握されていないため、まだ不確定な部分もあるということになった。
この報告を受けたチシュミジュ氏の提案は、聖堂の基礎部分を掘り下げ、足元にリングを回すというものであった。地震被害に対してはことのほか神経を使うこの国の構造技術者は、始めから材料の信頼度や施工精度を割り引いて考える習慣に慣れ親しんでいる。構造補強はル−マニア側の負担という取決めになっているため、その実施は予算に余裕のある1998年に持ち越され、現在その方式をめぐって議論が続いている。
室内環境制御
建築部門の作業というと、さらに木造の小屋組の改修が含まれる。1990年代初めになされた工事は精度が悪く、屋根のあちこちから雨漏りがする。それが、ヴォ−ルトやド−ムに染み込み、裏側のフレスコ画に多大の被害を与えてきた。フレスコ画の修復のためにも優先して改修工事を行わなければならないが、これも1998年に回されてしまった。
結局、事業開始1年目の1997年には、文化省が行った建築工事は聖堂に関して一件もなく、全体でも考古学的発掘現場のシェルタ−工事と囲壁上部の小屋組の改修に留まった。そのため、ユネスコ側からのクレ−ムが、新大臣となったカラミ−トル文化大臣に寄せられ、1998年のスケジュ−ル見直しに繋がるのである。
建築部門に関して、もう一点、聖堂内の室内環境制御の問題を挙げねばならない。今回の修復事業に到るまで、聖堂内で特別の暖房は行われていなかった。ル−マニア正教の聖堂の一般として開口部も小さく、冬期であっても、聖堂内に灯された蝋燭などの熱で、室内の温度は上がるのが常である。しかし、今回は冬期にフレスコ画の修復作業を行うこともあって、ユネスコ側の提案により、床下に暖房を組み込んで室内温度の制御を可能ならしめるようにすることになった。ル−マニア側の専門家はそれに対して反対意見を表明したが、文化省のトップの判断でそれにゴ−サインを出し、1997年8月から床暖房の設置工事に取りかかる。イタリアの床暖房システムを用い、スイスより招聘されたクリスティ−ヌ・ブラウア−女史の協力を得ながら、最高10-12℃の温度を設定することとなった。フレスコ画の保持という観点から、歴史的建造物内の微気候の制御はきわめて大きな問題である。その意味でも、プロボタの室内環境の長期的なモニタリング体制を整えるとともに、環境工学の専門家を配してさらなる研究が求められる。
この床暖房の工事は、必然的にその上におかれるべき床の仕上げについても、新たな議論を巻き起こした。すなわち、仕上げ材料をなにとなし、のデザインをどうするかということである。当初、この点はすべてポリズ−氏に任せられたが、そのデザインが大幅に遅れたこともあり、ユネスコ側がフランスから招聘したリシャ−ル・デュプラ氏に新たにデザインを依頼し、煉瓦仕上げの床パタ−ンを練ることになった。1998年夏の時点で完成することになっている。
考古学的発掘
建築工事をめぐって手続が難航しているなかで、考古学的発掘とフレスコ画の修復の方は予定通り進んでいった。
プロボタ修道院の歴史を、発掘考古学によって明らかにしようとの試みは、ユネスコ事業に先立つ1995年に、地元スチャ−ヴァ市の市立博物館によってなされ、聖堂内外にトレンチを試掘して、予備的な考察を行った。この成果を受け、ユネスコとの共同事業では、聖堂の内部、囲壁内一帯で本格的な発掘を行う。ル−マニア側の担当は、考古学者のヴォイカ・プスカシュ女史、ユネスコ側はみずから考古学者でもあるプロジェクト・マネ−ジャ−のヴァレンテ氏が責任者となった。聖堂の舗石をはがし、その下を掘り下げるため、聖堂でのミサ等の典礼は、隣の公爵の館の一階に仮祭室を設けてそこで行うことになった。聖堂内での発掘は1997年秋までに終わり、基礎の確認ならびにペトル・ラレシュ公の墓の発掘と続き、これによって第2次プロボタの創建当初の基礎が明らかになった。現在、聖堂の建設の経緯について報告書がとりまとめられつつある。
さらに、聖堂の南側の敷地についての発掘も大々的に行われた。その結果、その場所に大がかりな修道院居館の存在が確認され、地下深くに石造のヴォ−ルトをもつ地下室も発見された。創建当初から18世紀にかけ何期にもわけて増改築が繰り返された痕跡が確認され、修道院の生活を知る上でも重要な遺跡である。この発掘現場から掘り出された遺物は、正門の上部に設けられた考古学アトリエで丹念に修復復元され、将来の博物館が設立された暁には貴重な展示物となる予定である。
聖堂内部のナオスとベ−マを仕切るイコノスタシス(内陣仕切り)も、傷みが激しかった。木製ゆえに白蟻の被害を受け、またイコンが蝋燭の煤やほこりで覆われてしまっている。
そこでこのイコノスタシスを解体し、スチャ−ヴァ市内にある大主教区のイコン修復センタ−に送り、その修復を行った。歴史的記念物法では、イコノスタシスも文化財の指定を受けており、それゆえ文化大臣の許可なく手を付けることはできない。しかし、この修復は、ユネスコ側のプロジェクト・マネ−ジャ−の独断で、いわば超法規的に行われたものだったので、文化省側の反発は大きく、その後で両者の意志疎通を欠く原因になったことは残念である。ル−マニア側はイコン修復に際してそれなりの専門家の手にゆだねることを主張しており、国の認定を受けない修道女たちが修復にあったことを批判した。
フレスコ画の修復
さて、もっとも手間暇のかかるフレスコ画の修復にあたっては、長い蓄積を誇るル−マニア側の保存修復の経験が大きく役立った。ル−マニア側の責任者には、ブカレスト芸術アカデミ−の教授オリヴィウ・ボルドゥ−ラ氏が就き、一方ユネスコ側の責任者はオ−ストリア人でやはり長いフレスコ画修復の経験を有するハインツ・ライトナ−氏が指名された。前者は、モルドヴァ地方のフレスコ画の修復で高く評価され、現在の日本の天皇皇后両陛下が皇太子時代に訪れたことで知られるヴォロネッツ修道院の修復も手がけている。後者は、1993年のユネスコ・ミッションのメンバ−のひとりで、ル−マニアから比較的近い地の利を生かして車で行き来をすることとなる。最初の段階で、ル−マニア側とユネスコ側の役割分担が決められ、ル−マニアの修復チ−ムは聖堂の外壁を担当し、ユネスコから派遣されるチ−ムは、内部の壁面を担当することとなったが、後に冬期はル−マニアのチ−ムが室内の作業をこなす段取りとなった。このフレスコ画の修復にあったては、費用は原則としてすべてユネスコ側が負担した。
フレスコ画の修復を行うためには、壁面に沿って足場を組み上げなければならない。1993年の時点で文化省が緊急調査のため、北側の一画にのみ木製の足場を組み上げることになったが、ようやくそれが出来上がったのが雪の降り始める11月の頭だったということもあって何の役にもたたなかった経緯がある。しかも施工が悪く、長らく放置されてきたその足場は1997年になって全面的に取り替えられることになった。作業の効率化のためには、このような丸太を組み合わせた足場ではなく、アルミ製の移動式足場が必要ということになり、ユネスコ側でハンガリ−製のものを調達した。
外壁のフレスコ画は長年風雨にさらされて、傷みが相当ひどくなっていた。その点で緊急を要するのは、汚れた表面をクリ−ニングし、下地の空洞を埋め、剥離しかかった顔料層を定着させることである。1・をこの作業に費やすために1人約−−時間を必要とする。表面には黴など微生物が付着していることが多く、その生物学的劣化に対する保存科学的処置も要求される。この問題については、1993年に外務省の派遣で、国立文化財研究所(当時)の新井英夫氏が調査を行っており、それを受けてボルドゥ−ラ・チ−ムのイオアン・イストゥ−ドル氏が実際の微生物除去作業の処方を練った。
1993年の事業調査の報告書で、このフレスコ画修復が緊急を要することが指摘されたが、その貴重な文化遺産に多くの専門家や将来の専門家が触れ、教育的な意味を持たせることの重要性も指摘された。そのことを受け、今回の保存修復事業にあたっては、ル−マニア国内からも、諸外国からも多くの人間がこの作業に加われるような仕組みがつくられた。ル−マニアでは、ボルドゥ−ラ氏率いるチ−ム以外に同じアカデミ−の同僚でイタリアでの経験をもつダン・モハ−ネ氏も参加が求められた。また、ユネスコ側は、ライトナ−・チ−ム以外にフランスの専門家たるミシェル・エブラ−ル氏やロ−マのイクロ−ムで研修を受けた日本人の小林嘉樹氏らがやはり参加を求められている。さらに、イタリア、ポ−ランド、チェコなどからも専門家や学生が加わり、フレスコ画修復の現場は多い時で30名を越える人々が働いていた。
外壁と違って、聖堂内部の壁面は、ゆとりをもって仕事ができた。興味深いのは、ナオスの壁面など16世紀の最初のフレスコ画の上に新しいフレスコ画が描かれているところがあり、今回の作業を通して古いオリジナルのフレスコ画が発見されたことである。新しい層を剥がし、下から出てきたこれらの壁画は大変力強く、ル−マニアの美術史にとっても大きな発見であった。
プロボタに限らず、ル−マニア正教の聖堂は室内空間が比較的小さいため、蝋燭の煤でフレスコ画が汚れてしまう。その煤を洗い落とし、定着作業を経て新たに顔料が加えられたフレスコ画は、再びもとの輝きを得て、聖堂の内部を絢爛豪華な絵巻物に仕立てあげる。内部の修復はプロナオスを7月から12月まで続け、それに引き続いて墓室が冬期の間ボルドゥ−ラ・チ−ムによって作業がなされた。外はマイナス20℃を下る気候だが、内部に暖房を入れて、従来にない強行軍のスケジュ−ルで日程をこなすことになった。1998年春になって、聖堂内の現場はナオスに移り、今度はフランスのエブラ−ル氏を中心として修復作業が行われている。
今後の進展
以上のように、プロボタの保存修復事業は常に新たな問題を生みだしているが、その都度その解決をはかりながら進んでいる。保存修復の現場がいうなれば新たな実験の場でもあるわけだから、問題が起こることは当然であって、むしろそれをどう分析しどのような処方箋を下すかが問われているわけである。ル−マニア側とユネスコ側でもっとも対立することが多いのは建築部門であるが、この対立は西ヨ−ロッパのスタンダ−ドとル−マニアの方法とが大きくずれているところに端を発しているように思われる。さらに現地の建築材料の質の低さも大きな問題で、耐震補強の鉄筋コンクリ−トに異形鉄筋はなく、ただの丸鋼を用いざるを得ないなど、細かい点を挙げればきりがない。我国の耐震補強技術は大きく貢献しているが、さらなる研究を重ねて組積造建築についての構造解析と耐震補強の方法論を確立することが求められている。室内環境制御についても同じである。
1998年5月の段階でこのプロジェクトの1年間の延長が日本政府により認められ、現場レベルでは多少のゆとりをもって作業を行うことが可能になった。フレスコ画の修復作業は相変わらず続けられ、1999年秋には一応の完成を迎えるペ−スで新たなプログラムが練られている。ル−マニアのフレスコ画修復の技術は、西ヨ−ロッパに較べて遜色なく、伝統的な技法と素材を生かした独自の方法論を築いており、オ−ストリアやフランスの修復画家との共同作業が実りある成果をもたらしている。同時にル−マニアの修復技術を外に広めるのにも貢献している。
このプロジェクトが終わる1998年秋には、シュテファン大公にゆかりのあるプトナ修道院にて大がかりな国際シンポジウムが予定されている。プロボタで発見し築いてきたノウハウを中心に保存修復の問題を広く議論し、その成果を今日の保存修復の世界に還元しようとするものである。また、プロボタの経験を残すため、スチェヴィツァ修道院に隣接して保存修復センタ−が設立されることにもなっている。プロボタ修道院の事業を立ち上げるためにかなりの手間と時間を費やしたが、一度その事業が実際に始まってしまうとその内容はきわめて示唆的であることに気がつく。中世の組積造建築とフレスコ画という絶妙な組合せが、これに参加する人々の意欲を掻きたてる。3年間の密度ある作業が、さらなる保存修復作業の礎となることを願う次第である。