【特集】
諫早湾干拓
竹野新太郎(読者投稿・自営業・50歳)
|
プロローグ──何が問題なのか
国内で最大級の干潟が消滅して一年を経過した。一時期のマスコミ等による異様なにぎわいも一段落し、枝葉が切り落とされて、ようやく本筋が現れ、何が問題なのか、何が重要なのかを語れるときがきた、と私は思う。
そして、地元、諌早高校の新聞部が発行する『諌早新声』には、「諌早から消えた海」(97年5月28日)と題して、宮崎正隆先生(生物)が干潟から消え去った生物たちのレクイエムから、「これ以上の種の絶滅は人類のみならず、全生態系の破局を意味していることをもっと多くの人たちが知り、行動をおこす時がきたように思う。彼らの生存の場所を奪う権利が人間にあるのか、冷静に考える時が本当に到来したように思う。諌早の地に住む者としてしっかりと見つめ続けていきたい」といったふうに、自分の問題としてとらえ、考えていこうとする誠実な姿勢が読み取れる。 このように諌早湾干拓問題の本質は、これから以降も世界的規模で続くであろう自然環境破壊に対して、それらをどうとらえ、どう考え、どう行動を起こしていくのかという、各個人に突きつけられたもっとも今日的な問題であるといえるだろう。 |
|
地域住民の不安
一九九七年の夏、地元に帰って、私が(高来町出身)最初に聞いた話は、「干拓問題は難しか。困ったもんばい(干拓問題は難しい。困ったものだ)」だった。 |
|
干潟からの恩恵
多種多様な生物が約三百種以上、棲息する諌早湾の干潟から受けてきた地域住民の自然の恵み=恩恵は、生活全般のみならず(その浄化能力の高さから、市内に下水道がない。ほかに食材の豊富さなど)、人の感性をも豊かに育み、ある種の文学(干潟文学)を生み出したともいえるのではなかろうか。
彼の柩が諌早に埋葬されたのは故人の遺志であったといわれている。墓地のある広福寺は丘の一画、見晴しのほど良い位置を占める。「文林院静光詩仙居士」と戒名が刻まれた墓碑は、「私は再び帰つて来た」とたまさかそこを訪れる者に語っているようである。 伊東静雄は遠く大阪の地で、高校の先生をやりながら諌早を描き、野呂邦暢は地元に残って諌早の自然を、干潟があって、三方を海に囲まれた(諌早湾、大村湾、橘湾)「地峡の町」として描きだしている。彼らの共通点は多々あるが、さて、相違点はといえば、この創作拠点の違いだけだ。 だが、この違いは天と地ほどの差があると指摘したのは、野呂邦暢と同じように地方都市(長野県大町市)に暮らしながら、創作活動を続けている作家の丸山健二である。丸山健二は『草のつるぎ』(文春文庫)の解説文で、「野呂邦暢氏の小説に出てくる自然は本物である。それは自然のなかで暮している者しかできない描写であって、軽井沢の夏しか知らない、もしくは温泉宿の二階から眺めた冬景色しか知らない小説家には絶対に書けない自然である」と野呂邦暢の文学を絶賛している。 さらに、地元出身の作家ではないけれど、やはり九州は福岡県宗像市在住の詩人・森崎和江の著書『大人の童話・死の話』のなかに、筑後出身の童話作家・北原白秋のことを取り上げ、筑後川の河口に広がる干潟を、ちょっと違った色彩で描き出している文章があるので、ここに紹介しよう。
たとえば、小動物たちはたいてい春に孕み、死産したり、小さな生命が宿ったり、誕生したりする。一度、生命を与えられると、小動物たちは生きるために、殺し合いや喰い合いをやる。自然の豊かな土地に暮らす子どもたちの遊びの世界は、むしろ、このような小動物たちの生きるための殺し合いや喰い合いが主要な色彩なのである。 「昆虫や蛇や兎や狐たちの仲間のように、子どもらは太陽や水しぶきをはねちらしながら、蛙の肢を引きちぎったり、生埋めの跡をかぎまわったりして遊びました。それは邪気のない残虐さとして、いのちの成長過程の一面だったのかもしれません」と森崎和江は指摘する。死とはどういうことなのか、生きるとはどいうことなのかを、遊びを通して自然と考え、生き方を身につけていくのだ。大人がしゃしゃり出て語るわけでも、学校の先生に習うわけでもない。 ちなみに日本テレビ系の番組、ドキュメント97「死にゆく海・諌早湾干拓をめぐって」(97年、7月13日放映)のなかで、昔、漁師だった兼松不可止さん(83)の語った干潟の豊かさと、彼自身が語る言葉の豊富さは、確かに、誰かに教わったものでも、習ったものでもなく、自然と身についたものばかりだった。 兼松さんは干拓のことを聞かれて、賛成でも反対でも、どちらでもないと答える。なんだか心もとない答え方だが、これがいったん干潟の話になると、もう止まらない。「宝の海」から始まって、〈滑板〉と〈かご〉、それに体さえもっていけば、なんでも捕れるという。自給自足ができたという。自然の潟海だから、誰の許可を受けることもなかったと言い、では、自分だけがこんな特殊技術をもっていたのかといえば、そうではなくて、滑板を使って潟をすべり、貝や小魚を捕ることなんて、それこそ子どもにもできたと言って笑うのだ。 むしろ、ここいら辺で滑板を使えないほうがおかしい(現実にはすでに滑板を使える子どもはほとんどいない)、といわんばかりであった。 |
「テクネ」11号(1998年)掲載