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【特集】
諫早湾干拓

竹野新太郎(読者投稿・自営業・50歳)

プロローグ──何が問題なのか
あちこちからの声明文

 国内で最大級の干潟が消滅して一年を経過した。一時期のマスコミ等による異様なにぎわいも一段落し、枝葉が切り落とされて、ようやく本筋が現れ、何が問題なのか、何が重要なのかを語れるときがきた、と私は思う。
 確かに、潮受け堤防が閉め切られた一九九七年四月一四日以後、反対派や見直し派は「鋼板二九五枚の世界最大のギロチン」「ムツゴロウが真綿で絞め殺されている」「水門を開けろ」「防災になっていない」と騒ぎたて、一方、推進派は「地元の事情も知らずに批判するのはいかがなものか」「人の命がかかっている」となかば脅しにかかって、感情論のみが先行し、逆にマスコミ等の格好の餌食となっていた。
 しかし、そんな報道のなかにまじって、朝日新聞社長崎支局の深津弘記者のコラム「生態系壊さぬ防災論議を」(朝日新聞97年5月25日)は、諌早湾干拓について考えなければならないあるひとつの問題を提起していた。
 深津記者は「論議すべき一つの問題は、さまざまな生物がすみ、国際的に認められている干潟の重要性だ」と言い切っている。「確かに干潟が注目を集めたのは九○年代に入ってからだ。九三年に北海道で開かれたラムサール条約締約国会議に、渡り鳥の重要な中継地として関心が高まり、浄化能力の高さ、魚介類の産卵・稚魚の生育場所としての価値が見直された」と長崎大干拓構想が打ち出された一九五二年当時の食糧難からの発想との違いを、明確に語り、価値観の変容から見直しを主張している。
 また、同紙の「天声人語」(朝日新聞97年5月17日)の欄ではジャーナリストのひとりとして、諌早湾干拓の報道のあり方について、次のような批判文を掲載している。

     農水省が、曲折を経てこの国営干拓事業の起工式にこぎつけたのは、一九八九年の秋だった。着工した当時、週刊誌数誌に諌早干拓の特集を組むように働きかけたが、〈在京マスコミはほとんど関心を示さなかった〉という。今回も、水門を閉めた四月十四日以前には、東京の新聞、テレビの  関心はきわめて薄かった。長崎県の高田勇知事は「地元では、なぜこの時期に、こんなに大きい問題になるのか、戸惑いを感じている」と語った。先日、干拓を支持する地元首長らが東京で陳情活動を繰り広げた際にも、「いまごろになって、なぜ議論するのか」との声が出た。地元では解決ずみなのに、という気持ちなのだろう。──政治も経済も、日本では重点がとかく中央=東京に傾きがちだ。たいせつな問題でも、東京の新聞やテレビが伝えて、初めて全国の関心を集める例は、過去にもあった。諌早湾干拓も、結果的にそうなったのだと思う。残念ながらスタートは遅かったけれど、沸き立つ議論を続けたい。
 ジャーナリストとしての自分の立場から、どうにもならない現実を批判し、やんわりと「では、あなたにとっての諌早湾干拓とはなんですか?」と問いかけている、激しい文章でもある。
 そして、地元、諌早高校の新聞部が発行する『諌早新声』には、「諌早から消えた海」(97年5月28日)と題して、宮崎正隆先生(生物)が干潟から消え去った生物たちのレクイエムから、「これ以上の種の絶滅は人類のみならず、全生態系の破局を意味していることをもっと多くの人たちが知り、行動をおこす時がきたように思う。彼らの生存の場所を奪う権利が人間にあるのか、冷静に考える時が本当に到来したように思う。諌早の地に住む者としてしっかりと見つめ続けていきたい」といったふうに、自分の問題としてとらえ、考えていこうとする誠実な姿勢が読み取れる。
 このように諌早湾干拓問題の本質は、これから以降も世界的規模で続くであろう自然環境破壊に対して、それらをどうとらえ、どう考え、どう行動を起こしていくのかという、各個人に突きつけられたもっとも今日的な問題であるといえるだろう。

 

地域住民の不安

 一九九七年の夏、地元に帰って、私が(高来町出身)最初に聞いた話は、「干拓問題は難しか。困ったもんばい(干拓問題は難しい。困ったものだ)」だった。
 前者の「難しか」というのは、どういうことなのか説明しょう。
 五二年当時の県知事、西岡竹次郎の長崎大干拓構想では、食糧難の時代を反映して米作のための農地の確保が前面に押し出され、その目的がはっきりしていた。しかし、六九年農水省が米の生産過剰から減反政策を打ち出し、このあたりから、にわかに干拓の目的が、畑造成と水源確保へと様変わりした。そこで、新たに長崎南部地域総合開発事業が打ち出され、その事業のひとつとして諌早湾干拓が組み込まれたのである。ところが、この事業も一二ある泉水海(諌早湾の別称)漁業協同組合のうち、二組合が補償額をめぐって折り合わず反対された。また、県外の佐賀、福岡、熊本といった漁民からも反対され、結局当時の農水相、金子岩三(佐世保市出身)は、八二年三月、政治判断で事業の打ち切りを示唆せざるをえなくなったのである。
 このころ、諌早湾の干拓事業はいったん頓挫したかのように思われた。ところが、翌年の八三年になると、一九五七年七月二五日の諌早大水害(死者・行方不明七三八人)を引き合いに、集中豪雨に弱い土地柄に目をつけ、防災と名を打ち、規模も縮小して諌早湾干拓事業として、三再び計画に上がり、ごり押しの格好で八九年に着工されたのである。
 このように干拓の目的が二転、三転してもなお、事業が繰り返し計画されるのはなんなのだろう、と当然疑問が生じるわけだが、その疑問が一向に解決されないまま、あるいは地域住民に充分に説明されないまま、諌早湾干拓事業は着工されている。また、着工四年前の八五年当時、総事業費が一三五○億円だったのが、九六年には二三七○億円と十一年間で約一○二○億円はね上がっている。これはどういうことなのか。いろいろ推測はできるかもしれないが、とにかく公表されている資料が極端に少ないのが致命的だ。根拠のない推測は、所詮、噂にしかすぎないだろう。だから、考えてもわからない、つまり「難しか」ということになるらしいのだ。
 では、後者の「困ったもんばい」というのは、どういうことなのか。
 九七年五月一三、一四日にかけて、潮受け堤防閉め切り後、初めて一五○ミリの大雨が諌早地方一帯に降った。この大雨で、田畑が冠水する被害が出た。農水省の発表によれば、「一部の水田に十センチ程度の冠水が一時的に生じただけ」(朝日新聞97年5月21日)だという。しかし、実際には、被害はもっと大きく、「南高来郡吾妻町では、干拓地で冠水の深さを測ると三十六センチ。幅約二百メートル、長さ約一・三キロにわたって冠水していた。北高来郡森山町の干拓地でも、約六十ヘクタールに冠水が生じていた」(同紙97年5月21日)というように、かなりの被害を被っている。また、その後、七月の梅雨期の集中豪雨では浸水した家屋がかなりあり(正確な数字は発表されていないが、民間の調査では約百戸)、その被害は徐々に増え続けている。
 このように大雨の被害が出ては、農水省が防災と名を打って造った調整池の機能に、不安が生じるのは当然のことだろう。
 農水省によれば、「調整池の管理水位をマイナス一メートルに保つことにより、後背地の常時排水を改善する」(九州農政局諌早湾干拓事務所発行のパンフレットより)としてあるが、前記の五月一三、一四日の大雨のときの「農水省が記録した調整池のデータをみると、今回の大雨で調整池の水位は標高マイナス一メートルから時間を追うにつれ上がり、同マイナス○・四メートルの森山町の干拓地や同マイナス○・六メートルの吾妻町の干拓地より高くなった。九時間から十二時間、自然排水ができない状態になっていた」(同紙5月21日)といったふうに、かなり長い時間、田畑が水びたしになっていたということになる。降雨量一五○ミリでこのありさまだから、諌早大水害級の一○○○ミリを超える集中豪雨に見舞われたら、どうなるのか。想像しただけでも空恐ろしくなる。「困ったもんばい」が意味しているもののなかには、まさしく、この自分たちの人命がかかっているという悲壮感が含まれているのである。
 干潟が干上がって、カキやアサリ、カニやエビが死に絶え、腐敗して出す異臭がたちこめるのは、一時的な現象かもしれない。しかし、集中豪雨はたいてい梅雨期にやってくるのだから、諌早湾周辺地域の住民は、これから梅雨がやってくるたびに、調整池の水位はどうなっているんだろう、と不安がらなければならないことになる。
 このように、マイナス面ばかりが目立ってくると、以前の干潟が非常によく見えてくるらしくて、地元の幼なじみが言うには、諌早の干潟で捕れたカキは霜降りの牛肉に匹敵するほどうまく、カニはがん漬けにすると、ご飯を何杯でもお替わりできると言い、アサリはハマグリと見まがうほど大きく、甘いのだとひとしきり故郷自慢をしたくらいだった。
 むろん、私も口にしているが、とくに冬を越した三月から五月ごろのアサリは、殻から身がはみ出していて、格別の味がしたのは確かだった。

 

干潟からの恩恵

 多種多様な生物が約三百種以上、棲息する諌早湾の干潟から受けてきた地域住民の自然の恵み=恩恵は、生活全般のみならず(その浄化能力の高さから、市内に下水道がない。ほかに食材の豊富さなど)、人の感性をも豊かに育み、ある種の文学(干潟文学)を生み出したともいえるのではなかろうか。
 地元出身の詩人・伊東静雄や作家の野呂邦暢らは、なかば意識的に、有明海の干潟を自分の作品に描きこんでいる。
 伊東静雄の代表的な詩集『わがひとに与ふる哀歌』のなかにおさめられている「有明海の思ひ出」には、〈滑板〉という干潟特有の道具を使って故郷の「わが祖父の物語」を表現し、また、〈しやつぱ〉という蝦の一種で、たぶんシャコのことだと思うが、「泥海ふかく溺れた児らは…(略)…無数なしやつぱに化身をした」と自分の少年時代の物語を透明な感性で描き出している。
 そして、作家の野呂邦暢は『鳥たちの河口』や『諌早菖蒲日記』などで、干潟そのものを舞台にした作品を書き上げている。野呂邦暢にとって諌早の自然は文学そのものであり、いかに大切だったかは、七三年に「諌早の自然を守る会」が結成されたとき、華やかな中央文壇から離れ、西九州地方の十万人に満たないある小さな町で、独り小説を書き続けていた彼自身が請われて代表になっているところにも、そのいったんがうかがえよう。また、野呂邦暢は伊東静雄の作品に、というより、伊東の故郷感といったものに非常な関心と共感をもっていたようで、文芸雑誌の「文芸展望」(78年、夏号 筑摩書房)に、次のような「伊東静雄の故郷」を発表している。

     伊東静雄は故郷を捨てることで詩人になった。しかしまた現実の故郷と和解することで詩人として成熟したと筆者は考える。
    彼の柩が諌早に埋葬されたのは故人の遺志であったといわれている。墓地のある広福寺は丘の一画、見晴しのほど良い位置を占める。「文林院静光詩仙居士」と戒名が刻まれた墓碑は、「私は再び帰つて来た」とたまさかそこを訪れる者に語っているようである。
 野呂邦暢自身もすでにこの世になく、八歳のとき、長崎から引っ越してきた、諌早を永遠の故郷として選び、その地で創作活動を続け、志半ばして病に倒れ、駅近くの小高い金谷町の公有墓地に眠っている。
 伊東静雄は遠く大阪の地で、高校の先生をやりながら諌早を描き、野呂邦暢は地元に残って諌早の自然を、干潟があって、三方を海に囲まれた(諌早湾、大村湾、橘湾)「地峡の町」として描きだしている。彼らの共通点は多々あるが、さて、相違点はといえば、この創作拠点の違いだけだ。
 だが、この違いは天と地ほどの差があると指摘したのは、野呂邦暢と同じように地方都市(長野県大町市)に暮らしながら、創作活動を続けている作家の丸山健二である。丸山健二は『草のつるぎ』(文春文庫)の解説文で、「野呂邦暢氏の小説に出てくる自然は本物である。それは自然のなかで暮している者しかできない描写であって、軽井沢の夏しか知らない、もしくは温泉宿の二階から眺めた冬景色しか知らない小説家には絶対に書けない自然である」と野呂邦暢の文学を絶賛している。
 さらに、地元出身の作家ではないけれど、やはり九州は福岡県宗像市在住の詩人・森崎和江の著書『大人の童話・死の話』のなかに、筑後出身の童話作家・北原白秋のことを取り上げ、筑後川の河口に広がる干潟を、ちょっと違った色彩で描き出している文章があるので、ここに紹介しよう。
     白秋の子どものころ、紫に光る潟海の黒猫を放りこみました。猫はぬるぬると落ちこみながら、必死にもがいて、断末魔の異様な爪跡を泥の上にのこしたまま消えていきました。その爪跡を、アゲマキとりの女が一枚の板子を片足ですべらせながら、つやつやとならしていくのです。
 私は、ここでべつに、白秋の子どものころ、つまり子どもの残酷さを表そうとして、この文章を引用したわけではない。干潟のある村に暮らす子どもたちばかりではなく、大人も自然の豊かな土地に行けば、今日でも四季折々に変化する植物や小動物たちの営みを目にすることができるだろう。
 たとえば、小動物たちはたいてい春に孕み、死産したり、小さな生命が宿ったり、誕生したりする。一度、生命を与えられると、小動物たちは生きるために、殺し合いや喰い合いをやる。自然の豊かな土地に暮らす子どもたちの遊びの世界は、むしろ、このような小動物たちの生きるための殺し合いや喰い合いが主要な色彩なのである。
「昆虫や蛇や兎や狐たちの仲間のように、子どもらは太陽や水しぶきをはねちらしながら、蛙の肢を引きちぎったり、生埋めの跡をかぎまわったりして遊びました。それは邪気のない残虐さとして、いのちの成長過程の一面だったのかもしれません」と森崎和江は指摘する。死とはどういうことなのか、生きるとはどいうことなのかを、遊びを通して自然と考え、生き方を身につけていくのだ。大人がしゃしゃり出て語るわけでも、学校の先生に習うわけでもない。
 ちなみに日本テレビ系の番組、ドキュメント97「死にゆく海・諌早湾干拓をめぐって」(97年、7月13日放映)のなかで、昔、漁師だった兼松不可止さん(83)の語った干潟の豊かさと、彼自身が語る言葉の豊富さは、確かに、誰かに教わったものでも、習ったものでもなく、自然と身についたものばかりだった。
 兼松さんは干拓のことを聞かれて、賛成でも反対でも、どちらでもないと答える。なんだか心もとない答え方だが、これがいったん干潟の話になると、もう止まらない。「宝の海」から始まって、〈滑板〉と〈かご〉、それに体さえもっていけば、なんでも捕れるという。自給自足ができたという。自然の潟海だから、誰の許可を受けることもなかったと言い、では、自分だけがこんな特殊技術をもっていたのかといえば、そうではなくて、滑板を使って潟をすべり、貝や小魚を捕ることなんて、それこそ子どもにもできたと言って笑うのだ。
むしろ、ここいら辺で滑板を使えないほうがおかしい(現実にはすでに滑板を使える子どもはほとんどいない)、といわんばかりであった。

 

「テクネ」11号(1998年)掲載

 

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