『諫早少年記』書評

まっとうなノスタルジー
大人も一読してみるべき少年小説

清水鱗造(詩人)

 

 この本の作品の配列は十二の付きに沿って整然とならべる意図があるとはいえ、 内容の振興の面からいっても巧みである。まず、背景である海に近い町の点景が、 連作短編の主人公である少年・祐次の生活事象によって焦点を結んでくる。それ から、徐々に心象風景が広がり、どんな少年でも遭遇する人間の死の場面、さまざま な心身の体験を含む人間の関係性、そして性の意識などへと進んでいく。その 構成が、見事なほど堅実である。
 不知火や、野苺のある山の情景は、こういうふうに見えて、こういうふうに食べた、 という始まりの体験なのであり、少年の心象に合わせて追体験できれば、読者は 彼の生活像と交流する糸口を見つけたといってもいい。そこから先、大人の世界や 習俗は、見つけられた少年の目によって、より切実に映る。
「あとがき」に著者は《野に山に川に干潟の泥海にと少年・少女たちが、とにかく あふれるほどいた。そして、明治・大正の風俗や慣習がまだ残っていた時代だった》 と書いている。一九四七年生まれの著者が、なるたけそういう少年時代を書き残して いきたかったというのが、書き始めるきっかけだったという。五穀豊穣を祈願する 浮立(ふりゅう)は諫早湾沿岸の町・高木町に明治以前から続いている伝統芸能であるという。 ほかにも神待夜(とうや)、廿日えべっさん。これらは少年の目から見れば、不知火や 野苺と同じ並びで、完成を刺激するものとして捉えられる。
こういう著者の意図は、いっぽうで「書ききる」意思を、よく彫琢された描写に 反映させている。この意思が最後まで崩れない固有の文体を形作っているといっても いい。
 ノスタルジーは、複雑な層を成すものだと思う。簡単にいえば愛憎を含んだものが、 現在の自分から距離を徐々に離していくにつれ、ひとつの客観的な一部分析可能な ものに見えてくる感情がノスタルジーではないか。高木町のムツゴロウのギロチン騒動 のことで、読者はそこを読むことのとっかかりとするかもしれない。しかし、ひとつの 風物が幽霊のようになってしまったとしても、豊かな感情が回帰し、また著者の思考を 整理する場所としての風物は、確かにここに残されていることをまた読者は確認する だろう。
 よい少年小説が広く読まれることは、必要とされていることだと思う。なぜならば、 豊かな風物や、血や死や性や生活習慣のなかに固有の刻印を受け、やがてそれが分析 され始める、生の流れをたまには眺めてみることが誰にあっても必須だと思うから である。
 少年時代はどんな状況にあっても、常に「放牧」され、「向こうから」好奇心や興味 の対象がやってくる時間であり、それはやはりこういった本を読んでときどき確認 するべきものなのだと僕は思った。怪我や血なまぐさいもの、大人の世界への 不思議な感情、それらは恐れるに足りない。時代の倫理や習慣とともに、後に、忌避 すべきもの、生活の舞台として楽しむもの、などと分析されうるだろう。まっとうな ノスタルジーという言い方も変であるが、自分の中に残る少年をなぞるようにして 巷の少年に重ね合わせてみたい大人も、一読してみるべき本だと思う。

 

「週刊読書人」2000年2月25日(金曜日)

 

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